RAIN

被害者と被害者 3話

「そこで待っててね」
 1DKの部屋に連れて来られた。玄関に隣接した広いダイニングの奥に部屋がある。玄関のすぐ横には壁を挟んでキッチンがあった。シンクとコンロの間には調味料がたくさん置いてある。お皿も積み重なっていた。どちらもただ置かれているだけで整理はされていない。きたない。

部屋も広かった。左手奥にはベッドが置かれている。ベッドの真っ直ぐ先にはこたつを挟んで薄いテレビが置かれていた。テレビの横にはDVDのケースが積み重なっている。こたつの上にも乱雑に本が放置されていた。本の大軍はこたつの下のふわふわのカーペットまで侵食している。きたない。
 アキは私がいない間に部屋を散らかし放題にしていたらしい。決してゴミはないのに汚い印象が拭えない。とてもきたない。整理ぐらいすればいいのに。

キッチンの隣にある洗面所からアキが戻ってきた。待っててって言ったのに。とアキがぼやく。アキの視線の先には黒と僅かな赤が混じった足跡があった。ダイニングの床に複数個スタンプされている。アキは私を椅子に座らせると片足を持ち上げた。
 足元に置かれた桶にはお湯が入っている。桶の隣には箱に入ったガーゼ。それから小さな消毒液と数枚のタオル。何をされるかすぐに見当がつくと私は足を引っ込めた。アキは力強かった。家まで私を持ち運んだだけの腕力はあった。

「手当しないともっと痛いことになっちゃうよ?」
 困ったように見上げられると私は抵抗をやめた。アキはホッとしたようにため息を吐く。
「痛かったら言ってね」
 アキはお湯に浸けたタオルを足の裏に当てた。ぶわっと総毛立つ。忘れていた痛覚が一気に全身を駆け巡った。
「痛い!!」
「我慢してねぇ」
 裂けた皮膚の奥に入り込んだ泥は中々取れないらしい。優しい力加減で何度もタオルが訪れる。執拗に。同じ箇所へ。守られていない皮膚へ直接。

「痛いってば!!」
「もう少しだから」
 アキは持っていたタオルを横に置いた。私は安堵した。アキは新しいタオルをびちゃびちゃにした。私の足はがっちりと掴まれたままだ。私は悲鳴を上げた。
「はい終わり。次はこっちね」
「いや!!」
「はいはい」

 同じ要領で痛めつけられた。足の裏がヒリヒリする。時々チクッと痛んでジッとしていられない。アキは消毒液を手にした。私は逃げ出した。椅子から降りる間もなく捕まった。
「今度はすぐ終わるから!」
「嘘つき!! 痛いって言ったら止めるって言ったのに!!」
「そんなことは言ってないでしょ?」
「うるさい! バカ!」
 はいはい。とアキが適当な返事をした。そして足の裏全体に消毒液を吹きかける。仕返しなのかと錯覚するほどの痛みが下半身からせり上がってくる。やり場のない怒りをアキの両肩へぶつけた。消毒液を吹きかけられる度にアキの両肩へ爪を立ててやり過ごす。アキは怒らなかった。

「はい、本当におしまい」
絆創膏のような大きなガーゼで傷口を覆われた。アキはにっこりと笑うとタオルで足跡を拭き始めた。
 床に足を下ろす。ほんの少し体重をかけただけで嘘みたいに痛んだ。
「歩ける?」
 首を横に振った。アキは荷物を洗面所に引っ込めると私を片手でだき抱えた。もう片方の手には丸椅子が握られている。
 洗面所でもう一度椅子に座らされた。アキは私の両足にそれぞれビニールを被せる。足首にゴムを嵌めて固定すると上半身に手を伸ばした。服に手をかけられる。私はアキの手を掴んだ。アキが不思議そうな表情を浮かべる。

「お風呂入らないと」
「ひ、一人で入れる」
 アキはヘラリと笑った。アキは能天気そうな笑いが得意なんだと思った。私を痛めつけている時もヘラヘラしていた。
「本当? じゃあ着替え置いておくからね」
 先程と違いあっさりと解放されたことに拍子抜けした。


 なるべく立たないように全てを済ませることができた。身体中の水滴を拭うと前開きのシャツに腕を通す。パジャマを着るのは久しぶりのことだった。服はほとんど持っていなかったから。
「大丈夫?」
 ドアの向こうから声がかけられる。私はドアを開けた。ビニールも外してしまう。全身が温かい。
「ちゃんと拭かないと風邪引いちゃう」
 ふわふわのバスタオルで耳ごと拭かれる。獣の部位を引っ込めるのは得意なはずなのに。部屋を出てからはあまり維持出来ない。
 アキはドライヤーを手にした。
「いらないッ」

「大丈夫よ。痛くないから」
 アキはヘラヘラするとスイッチを押した。無遠慮な轟音が耳を劈く。私はダイニングへ逃げた。足が痛んだ。アキの腕が腹に回ってくるとグイと引き寄せられた。洗面所から一歩出たところで。
「やだやだやだぁッ!」
「すぐ終わるからね」
「さっきも同じこと言ってた! 離して!」
「終わったらね」

 アキの薄い手が髪の中にまで入り込んでくる。それは少し心地よかった。しかしドライヤーが全てを無に帰した。
 少しするとドライヤーが頭から離れていった。温風が尻尾に浴びせられる。私はアキの腕を掴んだ。びくともしない。
 ようやくドライヤーが止められたのは尻尾が乾いた頃になってから。アキから手を離すと同時にドライヤーがしまわれる。
 ごはんにしよっか。とアキが笑った。


 お米を食べるのは一ヶ月ぶりぐらい。アキが家を空けがちになってからは食事をまともに取れなくなった。アキも家で食べるわけじゃないから作る必要だってない。ほとんど寝て過ごしていたから栄養だっていらなかった。喉の渇き以外では一日に一度。もしくは二日に一度の頻度で何かを食べていたと思う。詳しいことはあまり覚えていない。その時は夢か現実かの区別だって曖昧だった。
 卵と一緒に柔らかく炊き上げられたソレはすごく熱そうだった。レンゲで持ち上げてみたものの口に持っていく勇気はない。きっと火傷してしまう。レンゲから昇ってくる真っ白な湯気がアキの顔を隠した。息を吹きかけて湯気を散らかすとアキと目が合った。

「食べられる?」
 私は一瞬だけ考えたあと小さく頷いた。アキは安堵した顔を浮かべた。私はジッと雑炊を見つめながら冷めるのを待ち続けた。
 アキが食べ終わった頃になってようやく私も口をつけた。味を感じた。ほんのり温かかった。ホッとするのと同時に鼻の奥がツンとした。咀嚼するのに紛れて唇を噛んだ。堪えることが出来た。
 半分も食べない内にお腹がいっぱいになった。まだ食べられる気持ちでいたが身体が受け付けなかった。アキが心配そうな表情をした。大丈夫。と答えた。美味しかった。とも言うとアキは再び笑った。


 歯磨きをし終えると一気に身体が重くなった。疲れているのかもしれない。洗面所の辺りから水が流れる音が聞こえる。閉まったドアを見つめながらこたつに顎を乗せた。久々に眠いと思った。壁にかかった時計を見た。二十二時だった。
 テーブルの上で両腕を伸ばすとそこに頭を乗せた。呼吸が段々ゆっくりになってきていた。アキが戻ってくる様子はない。眠ったらきっと嫌なことを思い出してしまう。眠りたくないのに瞼が落ちた。
 心臓の音が近くなる。呼吸の音がよく聞こえた。少しするとそれらも遠くなって音がなくなった。色々なことが頭の中に浮かんでくる。

 暗い部屋。一人。アキのにおい。声。言葉。好き。音。雨のしずく。温度。冷たさ。疲労。鉄格子。捨てられた。アキ。知らないおんな。気分の悪さ。夜の長さ。眠れない。喉の渇き。飢え。遠い帰り。詰められた荷物。アキ。駅の人だかり。知らない場所。アキ。ベッド。点滴。イヤホン。アキ。泥だらけの身体。伸び切ったシャツ。アキ。アキ。アキ。
(どうして)
 忘れていた感情が蘇る。

(なんで)
 胸の奥が苦しい。心の内側で膨張した痛みが肺を圧迫する。呼吸が浅くなって吸っても酸素が届かない。
(わたしを)
 好き。好き。好き。好き。好き。言ってくれたのに。撫でてくれたのに。抱きしめてくれたのに。愛してるって。シグレだけだって。私だけを。ずっと。
(どうして、捨てたの)
 目がジンとした。息が詰まる。

 そこで目が覚めた。
「大丈夫?」
 アキの輪郭が滲んでいる。熱い指が目元を這った。呼吸が乱れている。心臓がバクバクと忙しない。
「お布団行く?」
 こたつの上で寝転んだ体勢のままボーッとアキを見上げた。一人で眠ることはもう叶わないと思った。
「いかない」
 意思とは裏腹に声は掠れて頼りない。アキは私の頭を撫ぜると下がり気味の眉を更に垂れた。
「お水は?」
「のむ」

 コップを手渡されると身体を起こす。本当はもう休みたかった。頭は怠くて重いし思考は上手く回らない。水を二口飲むと一瞬だけ胸の通りが良くなった。
 再びこたつに寝転ぶとアキの手が髪の間を泳ぐ。胸に沈殿した錘が浮上すると眠気を感じた。瞼を閉じる。
 一瞬頭の中が空になった後に目を開いた。視線の先に天井があった。背中の下から手が抜けていくとアキが背中を向ける。私は慌ててアキの腰へ飛びついた。

「どこいくの」
 アキにぴったりとくっつく。漠然とした不安が身体中に押し寄せていた。電気を消しに。とアキは笑った。
「ほんとう?」
「ほんとう」
 ゆっくりとアキを離した。アキは言葉通りすぐに戻ってきた。同じ布団の仲に潜り込んできたアキに身体を寄せる。離れられないように服を掴むとアキの手が頭の後ろに回った。

 アキ。と名前を呼ぶと、アキによく似た彼女は穏やかな声で返事をした。彼女はアキじゃないことは分かっていた。
(アキはわたしのことをすてた)
 心の中で呟くと、再び滲んだ涙が彼女の衣服を濡らした。
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