移住して、従者

十七話「ファインダーの中」

 成形したクッキー生地を見てレイハットが顔を顰めた。
「何これ……」
 本館の調理室は一日に一度、どんなに多くとも二度しか使わない。一度目は昼下がりの午後。二度目はメルフィア様がいらっしゃる時。一人が怖い、との理由でベルニカ様は従者館で食事を摂っている。もちろん、極稀にメルフィア様がいらっしゃる日は別だが。

「クマよ?」
 穏やかな静寂が日差しの温度と共にじんわりと広がっていく。他の者も休息を取っているだろう時間、私はクッキー生地を型抜いていた。既にモップがけは終わっている。写真撮影という慣れないことをしたせいか、普段よりも疲労感が強かった。
 ふらりとやって来たレイハットに鉄板の中を覗き込まれると抜き型を凝視される。

「暑さに溶けたくま?」
「普通の可愛いクマですっ!」
「耳の形しか合ってないよ」
「目も二つあるし、口もちゃんと一つあるわ」
「そこは大前提だと思う」

 内心で納得しながら鼻部分を型抜くと、「ベルニカ様に?」と問われる。頷くと「泣いちゃうよ」と即答されたので少し苛立った。
「スライムに取り込まれたくまにしか見えない。それに、きっともう長くない」
「どうしてそこまで言われないといけないのよ」

 鼻部分をクマの形に型抜いた本体に乗せていく。瞳の部分は焼きあがった後に描いていく予定だから一先ずはこれで完成。瞳がなくとも、既に可愛いクマとして焼成される未来が容易に想像出来る。唯一気になる点としては輪郭が少しテロリとしていることだが、焼く間に縮むから大丈夫だろう。
「……ヨツギはくまがどう見えてるの」
 オーブンをセットして、手を洗い終わるとレイハットにペンを渡された。

「どう見えてる……? レイハットと変わらないと思うけれど」
「絶対違う」
 材料を箇条書きにした小さなメモ用紙を引っ繰り返すとノックバーを押す。瞬間、親指に抉り込んだペン先と鋭い痛覚。悲鳴こそ上げずに済んだものの、見れば親指の上で赤色が珠になっていた。皮膚の奥にインクの黒が乗っている。

「うわ、……大丈夫?」
 私よりも驚いたレイハットに「ええ」と軽く返す。この程度のことなら慣れているから、今更驚くこともない。それよりも、ペン先の確認を怠ったことに恥じた。
「ほら、クマ。これで良い?」
 ペン先を仕舞うとメモ帳と一緒にレイハットへ渡す。持ち歩いている絆創膏を指に乗せるとじわり、とガーゼに色が広がった。

「さっきよりもくまに似てる」
 嬉しそうにしたと思ったらこの発言であった。私はどんな顔をしていいのか分からないまま「そう」と答える。
「……ねえ、そんなに酷いかしら」
 恐る恐る聞いてみると、レイハットは力強く頷いた。
「飛び抜けて下手ではないけど、人前で絵を描くのはやめた方がいいと思う」
「そう」

 仕瀬は褒めてくれた、と彼女の幼い姿と共にぼんやりと思い出す。当時はあまりの一生懸命な褒め方に可愛らしい、と思っていたが、レイハットの言葉を聞いた今、あれは一所懸命ではなく、必死に近いものではないかと錯覚した。
 考え始めるとそうとしか思えなくなってくる。私は意識を別のところに向けようとベルニカ様の話をし始めた。レイハットは一瞬冷たい表情になったが、渋々でも付き合ってくれる辺りは優しいのだ。


「ねぇ」
 話が佳境に入る手前で水を差された。不満が顔に出ていたのか、レイハットは少しだけ決まりが悪そうな顔をするとオーブンを指差す。大きなオーブンに異常は見られない。見られない、が。
「あっ」
 焦げた匂いに慌ててオーブンを開ける。高温の蒸気を避けてから中を覗き込めば、生地が丸焦げ――ということはなかった。

「だ、大丈夫」
 幸い焦げていたのは一番外側の列、五、六枚だけで、他は濃いきつね色で済んでいた。オーブンの中から引き上げるとレイハットが一際黒いものを摘む。熱くないのだろうか。
「大丈夫? 苦いんじゃない?」
 ぱり、とクッキーにしては軽い音が響いた。レイハットが齧った部分がボロボロと崩れていく。中の生地も殆ど黒に近い茶色だった。

「ん、いや、そうでもない」
 そんなことはないはずだ。もぐもぐと食べていくレイハットに続いて焦げているはずのクッキーを持ち上げると――やはり相当熱かった――、ゆっくりと口に近付けていく。やはり苦味が強そうな匂いがしている。
 思い切って一口齧ると思わず噎せた。匂い通り、もしくはそれ以上に苦い。およそ好んで食べるものではないことは明らか。どちらかというとクッキーよりも炭に近い物体だろう。
 しかし当のレイハットはもう一枚焦げたクッキーを食べている。私を見て呆気に取られたように目を丸くしていた。口だけもぐもぐと動かしている。

「味覚音痴なの?」
 水を飲み終わるとレイハットは「そうでもないけど」と首を振る。
「相当重症だと思うわ。甘みを知らないの?」
 レイハットがムッとする。
「知ってるよ。こういう方の味でしょ」
 良い焼き加減――を少し通り過ぎたクッキーを指さされると「まあ、そうだけれど」と腑に落ちないまま答える。

「こっちも食べられるだけ」
「それもどうかと思うわ……」
 チョコレートの入ったペンを湯煎にかける。
「目、描くの?」
「ええ」

 仕上げが終わったらベルニカ様を呼んで、きっと一緒に居るはずのメルフィア様に写真を渡さなくてはならない。カメラはポケットの中。出来ればレイハットにバレる前に全て済ませてしまいたい。
「私が描くね」
「どうして?」
「少しはマシにした方が良いでしょ」
 さっさとペンを攫っていくレイハットに何も言えないまま、私は「じゃあ」と呟いた。
「ベルニカ様、呼んできてもいいかしら」
「うん」

 存外素直に頷かれてしまった。
「レイハット、」
「何?」
 真剣な表情をファインダーに収める。私など気にも留めずに作業を続けるレイハットへ、少しの悪戯心を込めてシャッターを鳴らした。びくり、とレイハットの肩が跳ねる。
「……ちょっと」
「ふふ、エイリアン」

 大きな飛沫がクマの中央に乗っている。最早クマではない。
 レイハットはカメラに気付くと眉間に皺を寄せた。
「ずっと聞こえてた音はそれ?」
「きっと違うと思うわ」

 カメラをカウンターに置くともう一本のペンをボールの中から掬い上げる。鋏で先を切ると、レイハットの横のクマに目を描いた。
「このクマはどこを見ているの?」
 クマは虚ろな目で斜め上を見つめている。微かに笑ったレイハットがこちらを振り向くと最後の一枚を撮った。


 広い私室はやはり殺風景な印象が拭えない。部屋に置かれているのは広さに見合わない小さな本棚と、朝には無かった亜麻色のソファー、そして深い茶色の椅子が二脚。本棚の中も図鑑のようなものが三冊だけ。
 菱形の模様が入った床には薄い煉瓦色のペルシア絨毯が敷かれている。
「どうしてレイハットばかりなの?」
 部屋で現像した写真は予定通りメルフィア様の手に渡った。写真は予想以上に喜ばれて、一枚一枚じっくり眺められるのが気恥ずかしいほどだった。

 ソファーに腰掛けたベルニカ様は、写真のいくつかを覗き込むと不可思議そうな、怪訝そうな表情を浮かべる。
「私が頼んだの」
「どうして?」
「怖くないレイハットが見たいからよ」
「レイハットは怖いの?」
「私には怖いの」

 どうしてかしら、とメルフィア様がぼやく。下手なことを言わないよう、私は一層気を張りながら口を噤んだ。
「ヨツギは怖い?」
「……私ですか……?」
 今だけは誰とも会話をしたくなかった。ベルニカ様の言葉にメルフィア様が私を一瞥する。視線こそ写真に向けられているものの、意識が私にあることは明らか。

「いつも一緒にいるでしょ?」
「そう、でしょうか」
「うん。レイハット、怖い?」
 一、二秒考えて。
「……そういう時もあります。ずっと怖いこともあれば、ずっと怖くないことも」
 ベルニカ様はいかがですか、と言いながらそっとメルフィア様を窺う。

「わたしもそう! 前はあんまり怖くなかった」
 一緒ですね、とすぐに答えると、ベルニカ様は「怖くない時もあるって」と、椅子に座るメルフィア様の背後に回った。
「そう。そうね、そういう時もあるかもしれないわね」

 自嘲のような笑いがメルフィアの顔に浮かんだ。逃げ出してしまいたい衝動に駆られた。加速する心拍数を落ち着けようと目を瞑る。研ぎ澄まされた聴覚がうわ言のような独白を拾い上げた。
「……あの子はこんな顔をするのね……」
 消えかけた語尾に少しだけぞっとした。
Copyright(C) Ikuta Kaoku All rights reserved.
inserted by FC2 system