移住して、従者

十六話「写真が撮れるまで」

 右人差し指を軽く沈める。シャッター音が辺りに響いた。レイハットがこちらを振り返り、慌てて柱の陰へ身を潜める。まるで、別の誰かに心臓を鷲掴みにされているようだった。スリルに近い恐怖が全身で脈打ち、呼吸さえ忘れてしまうほどの緊張感。
 そろり、と首だけで向こうを覗き込むと、レイハットは特に気にする様子もなく窓拭きを再開していた。安堵する。レイハットを撮っている、ということが本人にバレてしまえば、間違いなく変な誤解をされるからだ。

 レイハットを撮ってきて欲しい、と頼まれたのはついニ時間前のことで、相手はメルフィア様だった。正確に言えば『可愛いレイハットを撮ってきて欲しい』とのことだったが、私は『限りなく不可能に近い』などとは言わず、二つ返事で引き受けた。
 するとメルフィア様は全身で喜びを溢れさせて、普段の怜悧な表情をへにゃりと崩して笑ったのだ。さすが姉妹と言ったところか、吹きこぼれる幸福を前にしたときの表情はベルニカ様によく似ていた。

 私は反射的にメルフィア様を撮影した。驚いた様子に「あまりにも可愛らしかったものですから」と言うと、メルフィア様は微かに頬を赤らめて、先程までの引き締まった表情を意識的に行っていた。
 それからはメルフィア様の近くで力の扱い方を練習していたベルニカ様と一、二言やり取りすると、お辞儀をしてからメルフィア様の私室を出た。地球から持ってきた一眼レフをポケットに隠しこむと、モップを求めて一階へ下りる。

 私が使っているモップはクマさんだった。普通のモップと違う点は一つだけ。持ち手の先に付いている替え糸がうつ伏せになったクマなのだ。もちろん普通のモップと同じように扱える。短い手足を伸ばしたクマの身体は濃い茶色なので、汚れが著しく目立つこともない。それに可愛い。ベルニカ様は可愛らしいものがお好きな様子だ。ただのモップでは面白みがないだろう。
 私はクマで廊下を拭きながらさり気なくレイハットへと近付いた。レイハットが使っている用具もただの雑巾ではなく、所々白いまだら模様を描いた猫の形をしている。高さ数メートルある窓はワイパーを使っている記憶があったが、小さな窓は手拭きのようだ。

 泡を拭き取る動作を眺めながらポケットに手を入れる。果たして、これは『可愛いレイハット』なのだろうか。正直なところ、よく分からなかった。もしもレイハットがベルニカ様であるのなら、きっと可愛いのだろう。しかし相手はレイハットである。もしもメルフィア様に『違う』と首を振られたら、私はこの館を追い出されてしまうだろう。話を聞くに、メルフィア様はレイハットのことを気に入っている様子だ。
「なに?」
 とうとう泡が拭き取られてしまってもカメラを取り出すことは出来なかった。チャンスを逃してしまったことに少々落胆してしまう。レイハットは泡を拭き取ると数秒そのままの姿勢で窓の先を見つめ、そしてゆっくりとこちらを振り返った。不審げな様子だった。

「何って?」
「はぐらかさないで、ずっと見てたでしょう」
「あら、……バレていたのね」
「何か用件でも?」
「窓拭きのお手伝いをしようと思ったのよ」
「何でまた……」

 レイハットの足元に置いてあったバケツからただの雑巾を持ち上げる。バケツの中にはスプレータイプの洗剤が一本。もう一つのバケツには水がたっぷり入っていた。
「いつも手伝ってもらっているから。……お礼? よ?」
 雑巾と一緒に洗剤も取ると、隣の窓に吹き付ける。見よう見まねで泡を拭き取るとレイハットがこちらを向いた。
 訝しげな視線にジッと見つめられる。すぐに目を逸らした。バレてしまったかもしれないという不安が心の中に波紋する。

「そっちはもう拭き終わってる」
「そ、そう……」
 慌ててレイハットを追い抜いた先の窓を拭き始めるも、レイハットの視線は離れなかった。
「どうしたの……?」
「何を考えてるの?」
「そんな風に見える?」
 レイハットは頷く。

「体調でも悪いのか、それとも気が触れたか」
「失礼ね」
 あまりの言い草にムッとしてしまう。
「手伝ってるだけなのに。そんなにおかしいかしら」
「手伝うって……自分の持ち場が終わっていないのに?」
 すぐに返事が出来ないでいるとレイハットは溜め息を吐いた。何かを続けようとレイハットが口を開くと、私は遮るように洗剤を元に戻す。
「私は大丈夫よ。ただお礼がしたかっただけ。まだお返しが出来てなかったから慌てちゃったの」
「……そう」

 納得はしかねているようだったが、レイハットが頷く。追及されるのを恐れて、私は曖昧なことを言い残してすぐにその場を離れた。廊下の奥へとモップをかけていく私にレイハットは何か言いたげだったが、幸い声をかけられることはなかった。
 それからは延々と持ち場をモップがけした。レイハットの様子を見たかったが、今度こそ何かを言われるのではないかと思うと行動に移せなかった。
 休憩を挟まずにハイペースで廊下を往復していたせいか息が切れる。不意に窓の外を見れば庭で箒をかける仕瀬が見えた。

 四角を基調にデザインされたトピアリーが白いレンガ道を挟んでいる。その道を仕瀬は一生懸命箒がけをしていた。その様子をぼーっと眺めていると、ふと仕瀬が顔を上げる。何かを探すようにきょろきょろと辺りを見回して、最後の一瞬、顔だけでこちらを振り向く。お互いに少し驚いた後、仕瀬はパッと表情を明るくさせてペコペコと頭を下げた。なんだか微笑ましい様子に笑いが零れると軽く手を振る。
 お互いに作業に戻ると、私はもう一往復モップがけをした後、レイハットのところへそっと戻った。レイハットは窓拭きを続けていた。今度はワイパーを使っている。こちらに気付いている様子はない。
 私は柱に身を隠しながらカメラを取り出した。小型の一眼レフだ。ファインダーを覗き込み、出来るだけレイハットの顔を中央に寄せる。ここだ、と思うのと同時にシャッターを切ると、静寂にパシャリという音がこだました。私は慌てた。

 もしかしたら、盗撮まがいのことをせずとも、レイハットに直接頼めば良いのかもしれない。しかし頼んだところで、という気持ちもあった。あのレイハットが、カメラに向かって可愛い顔をするとは思えなかったからだ。そもそも笑顔さえ向けてくれるのか怪しい人物に賭け事をするような真似はしたくない。私は賭け事に滅法弱いのだ。
「レイハット!」
 このまま撮り続けていても大丈夫なのか、という不安がよぎったところで唐突に声がした。ベルニカ様だ。そっと覗き込むと、ベルニカ様がレイハットに話しかけている。内容は分からないが、とても嬉しそうだ。

 私はすぐにシャッターを切った。ぱしゃ、ぱしゃ、ぱしゃ、と三枚。ベルニカ様の脇に写ったレイハットで本来の目的を思い出し、微かに笑った表情のレイハットをもう三枚撮った。
 カメラをポケットに仕舞うと二人に近付く。
「ヨツギ!」
 ベルニカ様が愛らしい表情で駆け寄ってくる。
「あのね、今度はコップ出来たよ!」
「まあ」
 可愛らしい、と思った。

「良かったですねぇ」
 と笑いかけると、ベルニカ様がはにかむ。視界の端でレイハットが変な顔をしていた。
「なあに? 変な顔して」
「変な顔って……どうしてココにいるの」
「どうして……?」
 レイハットの問いかけを鸚鵡返しすると、レイハットは納得がいったようにポン、と手を叩いた。
「あっ、ベルニカ様。位置、分かるもんね」
「何を言っているの?」

 窓から放り込まれた火炎瓶を見ることは叶っても、どうすることも出来なかった。ベルニカ様が私を見上げる。何もかもが燃え尽きてしまう予感に、寒気がする。
「いえ、なんでもありません」
 レイハットがすぐに取り繕った。
「何がしたいのよ……?」
 無性に腹立たしくなって聞けば、レイハットは目を泳がせた。

「いえ、すみません。……いや、どうして私が謝罪を……?」
 困惑した表情を見せながらも、レイハットは「なーに?」「どうしたの?」と言うベルニカ様を宥め続けていた。私も控えめに言い訳をしておく。
 そこから抜け出せたのは十数分後で、ベルニカ様の興味が他へ移ったのと同時だった。
「ねえ、それなに?」
 ベルニカ様がレイハットの持つ猫を指差す。

「掃除道具です」
「猫なのに?」
「ヨツギのはクマですよ」
 ほら、とレイハットがモップを指差すと、ベルニカ様の嬉しそうな表情が凍りついた。
「……く、くまさんをイジメている……!」
「えっ? い、いじめてませんよ!」
 ベルニカ様は酷く不信感をもった顔をしていた。元々はベルニカ様のためにしていたモップ。まさかこんな感想が返ってくるなどとは思ってもいなかった。
「……猫はいいんですか?」
 レイハットが問うと、ベルニカ様は頷く。

「だって猫は空を飛んでるけど、く、くまは……」
 床に転がされてる、とお気に入りのおもちゃが壊れてしまったかのような声で言う。
「べ、ベルニカ様……?」
 私は何も、クマを床に転がしたかったわけではない。ただ可愛いデザインだと思ってやっただけのこと。それよりも猫が空を飛んでいるとはどういうことなのか。
 誤解や疑問をとこうとするも、ベルニカ様は思い出したように声を上げた。
「お姉さまが待ってる!」

 そう言うとベルニカ様はオレンジ色のマグカップを抱えて廊下を走っていった。危ないですよ、と注意する発想もなく、ただただその背中を見送る。
「……大丈夫?」
 レイハットの言葉に私は頷く。
「ええ、もう、大丈夫です」
 少しだけ、落ち込んだ。
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